2009年1月27日火曜日

勝手にダメな人定義

フルーツとナッツが嫌いな人。
駅ビルが好きな人。
2月に春を感じられない人。

以上。
なんとなくダメと感じる人でした。
まあ。私も駅ビルは利用しますが…。

2009年1月23日金曜日

言論の自由と発言権

外国に行ったことない人は。
日本が一番。
と、言ってはいけない。
なぜならば。
外国を経験していないのだから。

同様に。
結婚しろ、子供を持て、貯金しろ、老後を考えろ。
という社会の通念に。
「でもね…」
と、ちょっと意見するとき。
それらを経験していない者が反論しても。
それは社会的に聞き入れてもらえない。

言論の自由はあれど。
社会的発言権というのは。
意外と少ないもんだ。

結婚して、子供を持って、貯金して、老後を経験してからでないと。
『でもね』って私は言えない訳なのだが…。
『でもね』って言いてー。

でもね。
当たり前の事を言うのは簡単なのよ。
(あー。言ってしまった!)

2009年1月18日日曜日

頑張りと執着と依存

私はこんなにも頑張っているのにーっ!
キーッ!
となる人は。
私はこんなにも執着し。
こんなにも依存している。
と思うと。
自らを美化せず、
己を客観的に見れてよい。

頑張るとは。
ある意味、
それに執着と依存もしているということで。
それらと表裏一体なのだ。

2009年1月17日土曜日

はかなき常識

コペルニクスが地動説を唱えるまで。
太陽と星は地球の周りを公転していた。
それが常識であった。
ガリレオは。
その地動説を唱えたがために、
裁判にかけられ有罪となった…。

常識というのは過去何千年も信じられていても。
あっけなく変わる。
良識は時代と共にそれほど変わらぬとも。
常識というのは時代と共に変わる。
そんな常識に囚われるほど。
アホらしいことはない。

つまりだ。
私は常識ってもんが嫌いなのである。
社会的通念と常識を盾に話されたりすると。
ゲンナリしてしまう。

自分が生きていようとなかろうと。
数百年先を見るくらいのスパンで。
常識でなく、良識と自分の思考で。
生きたいのだ。
まあ。
数百年先は生きてないんだけど…。
それでもよいのだ。

常識は真理ではないのだから…。

2009年1月14日水曜日

個人と影響と日本

私は元来。
環境とか気になってしまう社会派な人間であった。

スーパーでは。
袋は要りません。と言い。
デパートでは。
過剰な包装にむなしさを覚える。
そんなティーンエイジャーであった。

で。
20歳になったとき、
会社という社会に出た。
そこで私が見たものは膨大な紙。紙。紙。
その膨大な量をみたとき。
がっかりした。
消費の本当の姿を見たような気がし。
いままで自分が気にかけていたことがアホらしくなった。
あー。自分は知らなかっただけなのだ。
あー。一人でやってても全く意味ない。と。

で。
私は社会を見捨てた。
地球も見放した。
滅びるなら、滅びるがよい。
たかが数百年、それが早まるだけだから…。

しかーし。
結局、10年見放した後、私は元に戻った。

人間一人ができることは少ない。
けれど。
人間一人の影響というのは。
意外とデカかったりするのである。

以前、毎朝会社で。
リンゴをまるごとシャリシャリ食っていた。
最初はなんだが視線を感じたものの(お固い大手企業なのです)。
いつしかそれが周りにも普通な光景になった。
『なんとなくあり』になった。

そう。
社会は一人でも変えられるのだ。
ということで。
たまに。
日本も変えられるとおこがましくも思ってしまうわけです。ハイ。
まあ。リンゴごときで社会を変えたとなる。
発想自体、おこがましいですが…。

p.s. 今日の発見。『会社』『社会』『会社』。おかしい。
これって『どーろ』『ロード』以来の大発見。<--バカ

2009年1月12日月曜日

本日の醜態

物なんていつかはなくなると。
わかっているのに。
やってしまったー。
お気に入りニットキャップがなくなり。
ジタバタ。
しかも。
もー。盗まれたー。とか妄想も広がり。
(自分の宝は他人も宝のはずという狭き観点)
帽子ごときで落胆を公共の場でさらし。
あー。恥ずかしい。

執着は醜い。
しかし。
物を愛でながら使いつつも、執着しないというのは。
むずかしい。
愛してもホイッと未練なく何かを手放すなんて。
人間にできるのか?
それが物でも人でも。

ま。
大切な物は時と共に変わるし。
何事も。
人生80年分の○○という尺度で。
ドーンと構えたい。

p.s. その後、ニットキャップはあったー。さらに恥ずかしい。
が、やはり、うれしい。ま。いつかさよならする日は来るのだが…。

2009年1月9日金曜日

軍隊なガソリンスタンド

あーがとございましたー。
あーがとございましたー。
ウイーッス。
敬礼!ペコッ。

これは誰がうれしいのだろうかと思う。
私はもっと普通のありがとうが聞きたい…。

2009年1月4日日曜日

死に向かって健康

動物は健康だから。
コロリと死ぬという。
私の犬も明け方コロリと死んだ。

私は酒も好きでないから飲まないし。
想像に囚われているため肉はあまり食わない(参照: 正しき肉の買い方 )。
気持ちよいから朝早く起き、運動もし。
食は大事なので (参照: 食は人なり )
野菜は予算範囲内で、
安全で新鮮なものを選ぶ。

で、人に言わせると。
そんなんで何が楽しくて。
そんな長生きしてどうするの?
と嘲笑されるのだが。

ちがーう。
私は動物のように死にたいのだ。
動物のように翌朝太陽が昇るころに、
コロリと逝きたい。
生に向かって健康を目指すのではなく。
死に向かって健康を目指すのだ。
そう。
死に向かうための健康なのだ。

とは言っても、まあ。
計画通りには行かないのが人生ですが…。

2009年1月3日土曜日

物の経験

サラリーマンになる前、私にも。
4年で12回も引越し、
アウトローもどきな時期があった。
その時期は、
段ボール5,6箱とスーツケース一個の荷物で暮らし。
大きな移動の度に物を手放した。
食器は引越先にあるものをを使い。
自分の物なんて本と服しかなかった。

物欲は俗っぽいこと。
というのは通説だが…

どうでもよい他人が選んだスプーン。
選んでさえいないかもしれないスプーンにお皿。
そんなものでで食うのと。
自分で吟味したスプーンで食うのでは。
経験値が違う。

日常のものさえ、そぎ落とした生活は。
私には高尚な生活ではなかった。
私には堕落した生活であった…

あの世に持っていけるのは。
魂と経験だけだという。

それを踏まえた上でも。
私は買い物=低俗とは単純に言わない。
物から得られる経験というのはある。
そんなことからでも、
洗練されることもあるし。
洗練されたい。
ただ、買ったものを使わないことは悪であり。
使わなくなったら手放すのが。
自分とおうちの健康というものだ。

ま。うちにもキツくて着れない服とかあるけど…。
(痩せるか売れ!)

2009年1月1日木曜日

福袋

そろそろ。
福袋で日本が盛り上がる季節だが。
物の真価を見ずして、
問わずして。
何が入っているかわからぬデパートの福袋に。
行列する様は。
己の徳の低さをさらけ出す以外の、
なにものでもない。
と思ってしまう。

↑超エラそー…。

p.s. 後日、最近の福袋は中身がわかっているとの話を聞いた。
で、普段使わないものを試すよい機会だとか。
なるほど…。