2010年9月30日木曜日

正しき飛行機の乗り方

**** パリへ GO! ****

やっと休暇。リューベック脱出。
都会の喧噪を離れて。田舎へ。
と言いたいところだが。
普段が田舎だから。
都会の喧噪とその空気感を求めてパリへ。

ハンブルグ国際空港。
あー。いつ見ても。
滑走路というものは美しい。

滑走路の両脇に。
ランプが一定間隔に置かれ。
それが手前から始まり遥か彼方まで続く。
空気の層で見えなくなるまで続く。
もー。遠近法の極地。
美しすぎる…。

そして。ここを。
『助走をつけて飛ぶ』という。
この原始的さがまたいい。

滑走路のスタートラインで一時停止。
機体がゴォ〜っと唸り始めるのだが。
これがまた。
走り幅跳びの選手が助走前に。
手足をブラブラっとし、2, 3回ジャンプしてから。
大きく息を吸って。
よっしゃーっ!
と走り始めるあのかんじに見えるのだ。

そして。助走。
いくぜーっ。と。
地面を蹴って機体が浮いたとき…。
そう。私はここから数分間。
機体が爆発し粉々になる姿を。
永遠と想像しつづけるのだ。
一瞬で爆発するときはどんな感じなのだろう?
『あっ!』という感覚はあるのか?
そして。
自分は死んだと認識できるだろうか?と考える。
『あれ。おかしい。なんでこんな所に…』
って思ったら。
『死んだんだ』と認識しよう。
と、自分に言い聞かせる。

そう。
これは私の離陸の儀式なのだ。
なぜならば。世の中は。
想像したことは起きないようにできていて。
それが世の摂理だと思っているから…。
( 参照:  (続2)自説: 想像したことは起きない )

昔は。死亡保険は○○にかけました。
これが領収書です。とか。
事務的な遺書を書いていた時期もあったが。
これは自分が家に帰ってから。
捨てるときがなんともいえないくらいマヌケなので。
やめた…。

離陸時はひたすら木っ端みじんを想像し。
そうこうしているうちに。
水平飛行に入り、一安心する。
というのが私が推奨する、
正しき飛行機の乗り方なわけです。

これを実践すると。
万が一。一瞬にして何か起こっても。
なにがなんだかわからん。
ということはなく。
死んだ。って認識できるはず笑。

バコーン!
爆風と爆音と共に。
赤い光が見えたと思ったら。
目の前が真っ暗に…。ウッ。ウグ〜ッ。
えっ。自分が…。あれっ。どこだ。これ。
あれ〜っ。死んだかもー。
ヤバイっ。
パンツ。部屋に脱ぎ捨てたままだったー。
洗ってない皿も台所に山積みだー。

なーんてこともないように。
ちゃんとお部屋もお掃除してから。
飛行機に乗りたいもんです。

2010年9月20日月曜日

ドイツで鍛える生活 #35

**** 会話の条件 ****

会社というのは。
無作為に選ばれた人々の集団である。
会社のためには多少、選ばれたかもしれないけど。
それは。仕事を抜きにしたら。
単に『無作為に選ばれた人々』である。
会話なんて当然噛み合ない。
しかし。そんな人々と。
時にはおしゃべりをしないといけない…。

        * * * * * * * * * *
さて。再び。
恒例の月曜日のチームランチ。
ボスは。やはり言った。
so... How was the weekend?
出たーっ。もうお前は月曜日、それしか言えんのかー!
(参照: 孤独論, 拷問的挨拶
いや。まて。あっ。これは。
会話をしようという彼なりの気遣いかも…。

外人と話す。となると。
語学力が大事と思いがちだけど。
実は。語学力以前に。
当たり前だが話す事がないと話せない。
(↑ここを多くの日本人は忘れている!)

会話(いわゆる『おしゃべり』)というものは。
共有するもの、共感するものがその人とあるか。
というところがポイントとなる。
もちろん、必要によって反論もするが。
結局。『そうだよねー』とか『そうそう!』
と言えるポイントがどこかでないと。
会話というものは成立しない。
『ツボ』が同じでないといけないのだ。

しかし。このツボが難しい…。
日本というのは。
音楽も欧米のメジャーなポップスだけじゃなく。
イギー・ポップだって聞くぜー。
アンダーグラウンドシーンだって知っているぜー。 
みたいなところがあり。
自分たちは欧米に属している。
という錯覚を起こすことがあるが。
世界は結構遠かったりする。

たとえば。
日本人は日本独自のアニメを見て育つが。
その他諸外国はアメリカ発のディズニーやシンプソンズで育つ。
欧米人(特に英語圏)は。
シンプソンズやサウスパークといったアニメが大好きで。
シンプソンズに出てくるさあ…。
みたいなおしゃべりをよくする。
シンプソンズなんかがわからないと。
単語を全部理解していようとも会話には入れない。
欧米人と国際結婚した人なんかも。
このへんで凹んだりするのではないかと思う。
実は。日本と世界はかなり距離があるのだ。

ここの場合はさらに遠く。
ルーマニアと日本という(*注1)
お互いの国のイメージすらないという遠すぎる関係。
そして。
同僚=社会から無作為に選ばれた人々。
ランチ=仕事以外の話をする礼儀。
この条件での会話…。

そう。私たちにはもはや。
地球という同じ時間軸を共有している。
という事くらいしか共通項がないのだ。
ボクに週末があったように君にも週末があったはず。
というわけだ。

しかしねえ…。
毎週、週末をどのように過ごしたか。
というこの発表会状態。なんですか。
あー。もう辛いですねえ。
浅い会話を永遠とするこの辛さ。

しかしまあ。共通項が。
地球の時間軸と天気くらいしかないとは。
なんと哀しいことか。

お互いのお国事情の質問でもすればよい?
そんなもんは最初の3ヶ月でネタ切れです。

(注1: ドイツで働いているけどチームメイトはルーマニア人)

2010年9月13日月曜日

ドイツで鍛える生活 #34

**** 拷問的挨拶 ****

はて。月曜日。
毎週。挨拶のごとく聞かれる。
How was  your weekend? がやってくる。
私の週末はどうだったかって…ねぇ。
(この意味については 孤独論 1参照)

これが。また。
一日に何回も聞かれるのだ。
まず。朝、自分のオフィスで軽く聞かれるので。
Oh, it was OK.とか。テキトーに答える。
しかーし。
問題は月曜日恒例のチームランチのお時間。

チームランチは5人。
その日のランチ担当がキッチンで食事を作り。
出来上がったら皆をカフェテリアに呼んで。
さあ。ランチを囲んで皆で着席。
誰から食事に手をつけるかで皆、モジモジっとした後。
(西洋人もこういうところはあり、これを毎週儀式のようにやる)
男が『どうぞお先に』と言う。そして。
レディーファーストで女から順番に自分の皿によそう。
(オモロイくらいどこまでもすんげー、レディーファースト)
で。皆がよそって食べはじめたその瞬間っ。
一人が私に聞くわけです。

So..., How was your weekend?

でたーっ。またですかー。この質問。
おい。待てやー。これ。単なる挨拶で。
How are you? の月曜日バージョンだろーがーっ。
しかし。皆に囲まれたこの状況。
挨拶程度で逃げられないこの状態。
でも。あまり私生活は話したくない。
でも。皆が私の答えを待っている…。もー。拷問…。
(ウッ。ク〜ッ…ヤバイ…笑顔でごまかせっ!)

「いや。まあ Good よ。(ニコッ)」と言うと。
「ふうん。君の週末はいつもGoodなんだね。悪い週末はないんだ」と…。

バカヤローっ。じゃあ、なにかー。
最低だった。とか言えばいいんかーっ。ボケ〜っ!
もー。私になんと言えとっ!
と、やるせなさを隠しきれなくなったとき…。
隣にいた同僚は茹でたジャガイモをほおばり。
Oh! Nice!  Very Good!と言った。
続いて。
味付けしていない焼いただけのカチンコチンの肉をほおばり。
再び。Oh〜!Very nice 〜!! と。

あー。もう。更にやるせない…。
おーい。
私はその言葉を一度も聞いた事がないぞー。
毎回。メニューに頭を悩ませてきたが…。
結局。受け入れられるのはジャガイモと肉なのか…。
もう。全身から力が抜けた…。
なにかがものすごく遠い…。

そして明日。月曜日。
再びやってくるチームランチと。
How was your weekend?

ウーム。
挨拶はしましょう。と言うけれど…。

挨拶をしないから、されないからでなく。
挨拶をすること、されることでも。
使いようによっては。
人は。こうも追い込み。
追い込まれるということを知った。

あー。もー。苦行だ。
さて。明日はなんて答えようか…。

2010年9月6日月曜日

ドイツで鍛える生活 #33

**** 孤独論 #2 ****

♫人は悲しみが多いほど〜
♫人には優しくなれるのだか〜ら〜
by 金八先生

ウーン。確かに…。
しかし…これに反応するとは。
私も壊れたもんだ。

さて。月曜日。出社すると…。
Hi!  How was your weekend?
(出たーこの質問!わたくしの週末ですかー?)
うーん。まあまあ。と私。
(何が『まあまあ』じゃ、ボケ〜。無言行のくせにーっ)
いやあ。ホント。変な天気だったねー。
と自ら天気の話に切り替え。
そう。今だに最後の砦を守っているのだが…。
(意味わかんない人は孤独論1参照 )

いや。別に。
孤独になることが罪なのではない。
私はどちらかというと。
人たるもの、一度は孤独であれ。
というスローガンを掲げるくらいの。
孤独推進派である。

そういや。9年前なんて。
3ヶ月近く人と会話をしない生活をした。
寺に入らずに俗界で3ヶ月の無言行。
何でそんな事になったのかというと。
一人でベルリンへお引越しをしてみたのであるが。
(↑これがそもそも奇行)
学校があるわけでも仕事があるわけでもなかった。
トラベラーでもなかった。
つまり。社会のどこにも属さなかったので。
最初の3ヶ月は誰とも知り合う機会がなかったのである。
たまーに自分の声を聞くとびっくりするという有様。

あれは確かに孤独という域に入っていた。
しかーし。あまりにも世の中と接点がなく。
社会が自分の手の届くところにないので。
孤独感さえ感じられないのだ。
(頭はおかしくなります)
で。そのなんといいますか。
人にバレれていないという。
最後の砦があったりするのです。

よく。苛めにあっている子供が。
親に言わないで隠しているというケースがあるが。
あれも同じで。その子にとって。
親に知られていない。
同情されていないという事が。
守るべき最後の砦なわけです。

話が脱線したが。
つまり。別の言い方をすると。
インドへの一人旅というのは。
孤独な一人旅にならないし、なり得ない。
なぜならば。
インド = 一人旅でしょ。
という社会の認知があるからである。
しかーし。
バリバリのリゾート地に一人旅は。
究極に孤独な旅となる。

つまり。
見られる孤独 =人の気配がある孤独は。
見られていない孤独 =人の気配がない孤独。
よりも。孤独度は強いのです。
で。第三者の認識にも影響を受ける。
その意味で私は。
孤独とは第三者によって完成される。
という説を唱えているのですねえ。

         * * * * * *
孤独を味わうことで。
人は自分に厳しく。
他人に優しくなれる。
いずれにせよ、人格が磨かれる。
by ニーチェ
         * * * * * * *

ああ。ニーチェよ。
私。金八先生のサビに反応できるようになりました。
人格は磨かれたかわからんけど。
もう。卒業していいですかー。

アホーっ!
自分の意思で卒業できる孤独なんて。
孤独じゃないわいっ。

ハイ。すみません。
思い上がりでしたーっ。